「四つの木箱」
森田源左衛門助六 幸作と幸子と閻魔大王 白神の夜1-2 未来からの訪問者 天草島原の乱1-2 昭生と朱美 神曲ep.1 二人の酔っぱらいep.1 洞窟での出来事 野良猫との再会 覚永和尚 みどりと信夫の大当たり 仙人候補生と姉弟 神曲 第一部1-56 神曲 第二部57-78 亜衣姫と羅夢王1-7
茂が仕事先から帰ってくると、玄関先に四つの木箱が積まれていた。
あて先は「鴻崎茂」差出人の記載はなかった。
「何じゃこれは」
茂は木箱の一つを持ち上げてみた。
「うーん、重たい」
ふうっ、
それでも茂は一箱づつ木箱を抱え部屋の中へと運んだ。全て運び終わると、バールとハンマーを持ってきて木箱の蓋をねじ開けた。と同時に茂は仰天した。
「おおーっ」
な、何と、
それしか言葉が出なかった。
木箱には真新しい帯封が付いた一万円の札束がぎっしりと詰まっていた。
四つ目の木箱を開けたら札束の上に一枚の書面があった。
その書面には、
「鴻崎茂君、この札束を君に進ぜよう。但し条件がある。このお金はどのような慈善団体であろうとも、寄付をしてはならない」
「すべて君自身のために使うこと」
「また、このお金の出自については他言してはならない」
と書かれてあった。
「うーん」と茂は唸った。
木箱に腰を下ろした茂は呆然とし、頭の中が真っ白になった。
暫くして一つの木箱をひっくり返して、百万円の札束を数え始めた。
「六億…!」
「そうすると〆て二十四億円かあ」茂は急いで玄関の鍵を閉めた。
それから百万円の帯封を破り頭上高くに投げた。ひらひらひらひらと一万円のお札が宙に舞った。
「これからどうしよう」茂は一万円のお札を拾いながら考えた。
「二十四億円かあ…」
「あした考えよう」と茂はベッドに横たわった。だが中々寝付けない。貧しかった小さいころの思い出がよみがえって来た。母は失対事業の土方仕事で日銭を稼ぎ、親父は朝から焼酎を呑んでいた。だが、優しい人たちであった。そんなことを考えていたら、うとうとと睡魔が訪れた。
その夜、茂は幼かったころの夢を見ていた。
今にも小雪が降りそうな寒い夜、家族四人で家財道具をリヤカーに積み、かじかむ手で坂道を押した。 こうして二年に一度は引っ越しをしていた。
茂は「今度のお家には長く住めるの」とお袋に聞いた。母は黙ってリヤカーを引いていた。
ある日、小学校から帰ってきた茂は、目の前の光景に、ただ呆然として立ちすくんだ。
「あれっ」
「家がない!」
借家は更地になっていた。
「ええっ」
!…
「どうしよう」
途方にくれる茂に、となりの家に住む中学生の女の子が出て来て、「お父さんとお母さんだったら、本渡にある劇場の楽屋に引っ越したよ」と教えてくれた。
もう使われなくなった劇場の楽屋に親父とお袋がいた。
そんな遠い記憶の夢だった。
…
翌朝、会社に欠勤を告げ、横浜銀行阪東橋支店に電話をかけた。
「はい、こちらは横浜銀行阪東橋支店です」
「あの…」
「はい」
「預金をしたいんですが」
「ありがとうございます。ご預金でしたら、当行に午後三時までにお越しいただけますと、お手続きが出来ます」
…
「それが…」
「まだ何か」
「重くて持てないのですが」
「重い…、お客様 いかほどご入金のご予定でしょうか」
「ざっと二十四億円」
「 」
二十四億円!
「お客様。大変お待たせしました。私は担当の櫛田というものです。失礼ですが、お客様は当行に口座をお持ちでしょうか」
「持っています」
「はい。ありがとうございます。ではお客様の口座番号を教えて頂けますでしょうか」
茂は支店番号と口座番号を教えた。
暫くして、
「確認が取れました。お客様は鴻崎茂さまご本人様でしょうか」
「そうです」
「二十四億円ものご預金と伺いましたが…」
「はい」
「ありがとうございます。では鴻崎様。本日のお昼前に、ご自宅にお伺いしてもよろしいでしょうか」
「かまいません」
それから十一時ごろエントランスのチャイムが鳴った。「横浜銀行の櫛田です」と言われ、オートロックを開錠した。茂は玄関の扉を開けて櫛田という銀行員を待った。
エレベータから台車を押した警備員と中年の銀行員、それに女性の行員が降りて来た。中年の行員は茂を見つけると「鴻崎茂様でしょうか」と尋ねた。
「はい」
二人の銀行員は名刺を取り出して、「櫛田信夫というものです」と言い、女性の行員は「多喜田みどりです」と言った。
名刺を受け取った茂は「さあどうぞ中へ」と三人を部屋に入れた。
「うわあ!」と、
みどりは歓声を上げた。そこには四つの木箱が、蓋を開けられた状態で並んでいた。櫛田は拡大鏡と青色に光るスコープで真贋を確かめている。帯封には三井住友銀行との刻印があった。
「では多喜田さん、始めましょうか」と櫛田はみどりに促した。みどりは紙幣計算機のコードをコンセントに差し込み、札束を数え始めた。櫛田は百万円づつ輪ゴムで留め、持ってきた袋に入れた。
三井住友銀行の帯封が山となった。
それから凡そ二時間は経過したころであろうか。
「終わりました!」とみどりが言った。〆て二十五億円であった。
「あ、ちょ、ちょっと待って」
「一億円は手元に残したいのですが…」
「分かりました。では鴻崎様。二十四億円のご預金と言うことで宜しいですね」と櫛田が言い、四つ目の袋から一億円を取り出した。
櫛田は「鴻崎様、それではですね、大変申し訳ありませんが、ここでは記帳することが出来ません。車を用意させておりますので、支店の方にまでご一緒させてもらえますか」
「分かりました」と、茂は通帳と印鑑を持ち、警備員は四つの袋を台車に載せて階下まで降り、車で阪東橋の支店へと向かった。
…
あれから一年、茂は日本国中、旅をして回った。
春うららかな只見線の無人駅で、開いたドアから電車に舞い込んだ蝶々、朝靄の雲海の中にそびえる中央アルプス、初冠雪で墨絵のような杉木立の山々や、神々しい熊野古道。どれも息を飲む美しさであった。 だが一向にお金は減らない。九十歳まで生きたとしても、毎日十一万円は使わないとお金が余ってしまう。
茂は久しぶりに明治神宮にお参りに行った。その帰り道、後ろを歩いていた、二人連れの女性の一人が茂に声をかけた。
「あの、もしかして」
茂は振り向いて「何か」「… あれっ、多喜田みどりさん」と言った。
はい!
「そう。そうです。鴻崎さんお元気でしたか」
うーん、
「元気も何も毎日遊んで暮らしております」「今日はどうしてこちらに」と茂はみどりに聞いた。
「こちら、ベトナムのお友達、ミン・ハインさんと東京見物です」
「ほう」
「初めましてミン・ハインと言います。ハノイから来ました」
「日本語お上手ですね」
「いえ、ちょっとだけ」とハインは指で仕草を作った。
みどりは「三人でお茶しましょうか」と言い、竹下通りのスターバックスに入った。
聞けばベトナムでは、第一外国語が日本語になったと言う。アジア、いや世界でも、最初の快挙である。それで日本語をマスターするために訪日したらしい。
茂は「日本語学科の先生になるの」と聞いた。
「はい」
茂は台湾もベトナムも、ゆくゆくは日本連邦になるに違いないと思っていた。
「では子供たちの教材となるような、絵本とかドリル、童話集、日本昔話などを、ハインさんの学校に贈りましょうか」
「いえ、そこまでは」
「貰っちゃいなさいよ、このかたはお金持ちなのだから」とみどりが言った。
「そう、贈与ではないよ。後でベトナムのお話などを送ってもらい、読ませて頂きますので」
ふうっ、
やばかった。
一切寄付はするなとの約束を破るところだった。
茂はメモ帳を取り出して「ここに送り先の住所を書いてくれる、後で拡大コピーして荷物に貼るから」と言った。
ミン・ハインは学校の住所を書いた。
みどりは間近で茂の顔を見つめていた。端整な顔立ちでかなりの好男子である。みどりのタイプでもあり自ずと顔は赤るみ、心拍数が上がるのを覚えた。こんな感覚はみどりにとって初めての経験だった。
茂はみどりと携帯番号の交換をした。そして明日の日曜日の正午、桜木町の改札口で会う約束をして二人と別れた。
次の日、改札口で合流した二人は、みなとみらいの観覧車に乗った。
「これ一度、乗りたかったんだ」
「一人じゃ恰好がわるいもんね」とみどりが言った。
観覧車はゆっくりと回り始めた。
「この一年間で、お金はどれくらい使ったの」
「まだ七百万円」
「へー、たったそれだけ!二十五億円もあるのに」
「九十歳まで生きたとしても、毎日十一万円は使わなくてはいけないんだ」
「毎日十一万円!」
「協力してもらいたいんだが、どうかな」
「えー、それってプロポーズ」
「そう、だめか」
…
「いえだめじゃないよ」
「本気」
「本気だよ」
「僕と一緒に、あちこち旅行するので、横浜銀行は辞めてもらうけど、いいの」
みどりはそれでもいいと言った。
それから二人は、赤レンガ倉庫の中にある宝石店に入り、茂はみどりに婚約指輪を買ってあげた。次に二人は住居を探し始め、横浜市中区元町にある3LDKのマンションと、ホンダCX-Zを購入した。
茂とみどりは新居に越して来た。二人は、朝は中華街で美味しいおかゆを食べ、夕は横浜球場でビール片手にベイスターズの応援をした。
そして試合のない日は、ホンダのCX-Zを飛ばして、箱根の温泉宿に泊まりに行った。だがそれでも、二人で一日十一万円のノルマには至らなかった。
「お金持ちって、やっぱ、かね減らねえもんだなあ」
「茂さんの小さかったころは」
「とっても貧しかった」
「あんなお金持ちがいたのに」
「たぶん勘当されてたのじゃないのかな」と茂は嘘をついた。
ふうっ、
やばいやばい。
…
「なあ、籍を入れるか」
「いいわ」
「式は挙げられないけど、いい」
「いい」
「お友達に大変なお金持ちだとバレちゃうものね」とみどりが言い、机の引き出しを開けて、婚姻届けを見せた。そこには証人の名前と判子も押してあった。
「うーん、」と唸って茂は笑った。
…
翌日二人は、中区役所に婚姻届けを出しに行った。そして茂はみどりの口座に「何かと物入りだろう」と十億円ほど振り込んだ。
悩みがないってことは好いことだ。みどりはますます美人になった。二人とも貧乏性なのか、お金の使い道を知らない。さあてどうする。
「今日は何して遊ぼうか」
「焼肉!」
「うん、それからカラオケにも行こう」
中区役所前でタクシーを拾い、伊勢崎商店街の前で車を降りた。そして安楽亭で焼肉を食べ、隣のビルの4Fにある歌広場というカラオケ店に入った。
飲み物を注文して、薄暗い照明の個室に入った二人は、激しく抱き合い唇を合わせた。店員が酎ハイとポテトスティックを運んできた。二人はまず都はるみと岡千秋の「浪速恋しぐれ」を歌った。♫…笑う二人に、笑う二人に、浪速の春が来る…♫
…
「ねえ茂さん」
あのね。
「私たちを見て閻魔様はお怒りになられるかしら」
「そんなことはないと思うよ」
「だって悪いことは何もしてないし、欲にかられて、今のお金を増やそうともしてないでしょう」
…
「パナマ文書に書かれている習近平とか、孫正義とか、アグネスチャンらの隠し財産と違ってさあ、腹黒い欲がないもんな」
「そうね、そうだよね、」と言って、みどりは酎ハイを一気に飲み干して、茂の唇を奪い、舌を絡ませてきた。茂はそれに応じた。甘い感触で…、
気持ち…よかったあ。
次の日、「茂さんはどこで生まれたの」とみどりが聞いてきた。
「あ、話さなかったっけ。生駒の小明稲蔵神社の本殿だよ。いかるが三十六峰の一つで、天孫降臨の地でもあるんだよ」
「へー、凄いじゃん。天使さまだあー」
「じゃああ、あした親父の墓参りを兼ねて行ってみようか」
「行くいく」
二人を乗せた新幹線は京都駅に着き、奈良線から近畿鉄道に乗り換え東生駒で降りた。そしてタクシーを拾い稲倉神社の鳥居の前で停った。一の鳥居、二の鳥居をくぐると、懐かしい我が家の廃屋があり、さらに幾つもの鳥居を抜けると稲倉神社の本殿があった。
茂はご神体である烏帽子石(えぼしいし)の裏の祠の前に花束を添え、手を合わせて「奈良丸さんありがとう」と言った。
「奈良丸さんって」
「親父だ」と茂は言った。
「あ」
「あっ」
「見た」
「見えた」
本殿の真上から透明な球体が空高く昇って行った。
ー稲蔵神社ー
横浜に戻って来た二人は稲倉神社で拾ってきた小石を神棚に置き、朝な夕なに柏手を打ち、日々の平安を感謝し、祈った。
するとある日、一人の男が訪ねて来た。
「ごめん下さい」
茂は戸を開けた。見るからに上品な紳士であった。「鴻崎茂さまですね」
「はい」
「私はこういうものです」と名刺を渡された。名刺には「取締役社長、豊田喜一郎」と書かれてあった。
「あの有名な自動車会社の」
「そうです」
「ま、ど、どうぞお入りください」と茂は言った。みどりはお茶を入れて、テーブルの上に置かれた名刺を見てびっくりした。
「実はですね、」と喜一郎は話し始めた。
「父が、つまりわが社の会長が先日亡くなりまして、父の遺品を整理していましたところ、あなた様のことが書かれた調査依頼書がありまして、こうしてお伺いさせていただいた次第です」
「はい」
「実はあなたと私は、実の兄弟です」
「はあっ」
「さぞ 驚かれたことでしょうが、あなた様は、父と愛人の間に儲けられた私の弟です」
「はあっ」
「親父はその頃忙しくしており、愛人であるその娘は、あなた様を連れて生駒に帰られたそうです。まだ若いその娘だけでは育てきれずに、稲倉神社の本殿の前に置いて来てしまわれたそうです」
「はあ」
「そして鴻崎奈良丸ご夫婦に拾われ、大切に育てられているものだと親父は思っていました」
「はい」
「ところが、あなた様たちご夫妻が大変なご苦労をされておられたことが、のちのち興信所の調べで親父の知ることとなりました」
「はあ」
「父の遺言状には、あなた様のことは書かれてありませんでしたが、私の一存ではありますが、財産分与を致します。どうぞこれを受け取って下さい」そう言って豊田喜一郎は十億円の小切手を茂に渡した。
「それは、どう、も…」
しかしなあ…
あの二十五億円も実の父からなのか…、二重取りになると不味いかなと思い「うーん、どうする」と茂はみどりに聞いた。
「ハインちゃんのこともあるし、ここは頂いておけば」とみどりは言った。
「それはどういうことですか」と豊田喜一郎が聞いてきた。
「小学生からベトナムの第一外国語が日本語になるそうで、それでベトナムの先生方が日本語を学びに来ておられます」と茂が言った。
「第一外国語が日本語に!」
「それも小学生から!」
「はい」
「それは素晴らしい。本当に素晴らしい。是非わが社がスポンサーになります。ベトナムに工場を建てる計画もありますので、経済的な支援はもちろん、人材も任せて下さい」と喜一郎が言った。
「土地建物、それに日本語教師も、わが社と、おそらくは大手の製造業社も負担するかと思います」と、世界的に有名な自動車会社の代表取締役社長が言った。
「ではここに、一度 連絡してみたらいかがですか」と、茂はハインが書いた学校の住所を渡した。
その夜、茂は「どうする、またお金が増えたぞ」と十億円の小切手をひらひらさせて みどりに言った。「もう知らない!」と、みどりは布団の中にもぐりこんだ。
そして布団から顔をのぞかせ「あしたベイスターズ勝つかなあ」と言った。
「了」
茂が仕事先から帰ってくると、玄関先に四つの木箱が積まれていた。
あて先は「鴻崎茂」差出人の記載はなかった。
「何じゃこれは」
茂は木箱の一つを持ち上げてみた。
「うーん、重たい」
ふうっ、
それでも茂は一箱づつ木箱を抱え部屋の中へと運んだ。全て運び終わると、バールとハンマーを持ってきて木箱の蓋をねじ開けた。と同時に茂は仰天した。
「おおーっ」
な、何と、
それしか言葉が出なかった。
木箱には真新しい帯封が付いた一万円の札束がぎっしりと詰まっていた。
四つ目の木箱を開けたら札束の上に一枚の書面があった。
その書面には、
「鴻崎茂君、この札束を君に進ぜよう。但し条件がある。このお金はどのような慈善団体であろうとも、寄付をしてはならない」
「すべて君自身のために使うこと」
「また、このお金の出自については他言してはならない」
と書かれてあった。
「うーん」と茂は唸った。
木箱に腰を下ろした茂は呆然とし、頭の中が真っ白になった。
暫くして一つの木箱をひっくり返して、百万円の札束を数え始めた。
「六億…!」
「そうすると〆て二十四億円かあ」茂は急いで玄関の鍵を閉めた。
それから百万円の帯封を破り頭上高くに投げた。ひらひらひらひらと一万円のお札が宙に舞った。
「これからどうしよう」茂は一万円のお札を拾いながら考えた。
「二十四億円かあ…」
「あした考えよう」と茂はベッドに横たわった。だが中々寝付けない。貧しかった小さいころの思い出がよみがえって来た。母は失対事業の土方仕事で日銭を稼ぎ、親父は朝から焼酎を呑んでいた。だが、優しい人たちであった。そんなことを考えていたら、うとうとと睡魔が訪れた。
その夜、茂は幼かったころの夢を見ていた。
今にも小雪が降りそうな寒い夜、家族四人で家財道具をリヤカーに積み、かじかむ手で坂道を押した。 こうして二年に一度は引っ越しをしていた。
茂は「今度のお家には長く住めるの」とお袋に聞いた。母は黙ってリヤカーを引いていた。
ある日、小学校から帰ってきた茂は、目の前の光景に、ただ呆然として立ちすくんだ。
「あれっ」
「家がない!」
借家は更地になっていた。
「ええっ」
!…
「どうしよう」
途方にくれる茂に、となりの家に住む中学生の女の子が出て来て、「お父さんとお母さんだったら、本渡にある劇場の楽屋に引っ越したよ」と教えてくれた。
もう使われなくなった劇場の楽屋に親父とお袋がいた。
そんな遠い記憶の夢だった。
…
翌朝、会社に欠勤を告げ、横浜銀行阪東橋支店に電話をかけた。
「はい、こちらは横浜銀行阪東橋支店です」
「あの…」
「はい」
「預金をしたいんですが」
「ありがとうございます。ご預金でしたら、当行に午後三時までにお越しいただけますと、お手続きが出来ます」
…
「それが…」
「まだ何か」
「重くて持てないのですが」
「重い…、お客様 いかほどご入金のご予定でしょうか」
「ざっと二十四億円」
「 」
二十四億円!
…ですか、
「お客様御冗談はやめて下さい」
「冗談なんかではありません」
「本当ですか」
「本当です」
「お客様。担当の者に替わりますので、このままお電話を切らずにお待ち下さい」と女子行員に言われ、携帯に待ち受けメロディが流れた。
「お客様。大変お待たせしました。私は担当の櫛田というものです。失礼ですが、お客様は当行に口座をお持ちでしょうか」
「持っています」
「はい。ありがとうございます。ではお客様の口座番号を教えて頂けますでしょうか」
茂は支店番号と口座番号を教えた。
暫くして、
「確認が取れました。お客様は鴻崎茂さまご本人様でしょうか」
「そうです」
「二十四億円ものご預金と伺いましたが…」
「はい」
「ありがとうございます。では鴻崎様。本日のお昼前に、ご自宅にお伺いしてもよろしいでしょうか」
「かまいません」
それから十一時ごろエントランスのチャイムが鳴った。「横浜銀行の櫛田です」と言われ、オートロックを開錠した。茂は玄関の扉を開けて櫛田という銀行員を待った。
エレベータから台車を押した警備員と中年の銀行員、それに女性の行員が降りて来た。中年の行員は茂を見つけると「鴻崎茂様でしょうか」と尋ねた。
「はい」
二人の銀行員は名刺を取り出して、「櫛田信夫というものです」と言い、女性の行員は「多喜田みどりです」と言った。
名刺を受け取った茂は「さあどうぞ中へ」と三人を部屋に入れた。
「うわあ!」と、
みどりは歓声を上げた。そこには四つの木箱が、蓋を開けられた状態で並んでいた。櫛田は拡大鏡と青色に光るスコープで真贋を確かめている。帯封には三井住友銀行との刻印があった。
「では多喜田さん、始めましょうか」と櫛田はみどりに促した。みどりは紙幣計算機のコードをコンセントに差し込み、札束を数え始めた。櫛田は百万円づつ輪ゴムで留め、持ってきた袋に入れた。
三井住友銀行の帯封が山となった。
それから凡そ二時間は経過したころであろうか。
「終わりました!」とみどりが言った。〆て二十五億円であった。
「あ、ちょ、ちょっと待って」
「一億円は手元に残したいのですが…」
「分かりました。では鴻崎様。二十四億円のご預金と言うことで宜しいですね」と櫛田が言い、四つ目の袋から一億円を取り出した。
櫛田は「鴻崎様、それではですね、大変申し訳ありませんが、ここでは記帳することが出来ません。車を用意させておりますので、支店の方にまでご一緒させてもらえますか」
「分かりました」と、茂は通帳と印鑑を持ち、警備員は四つの袋を台車に載せて階下まで降り、車で阪東橋の支店へと向かった。
…
あれから一年、茂は日本国中、旅をして回った。
春うららかな只見線の無人駅で、開いたドアから電車に舞い込んだ蝶々、朝靄の雲海の中にそびえる中央アルプス、初冠雪で墨絵のような杉木立の山々や、神々しい熊野古道。どれも息を飲む美しさであった。 だが一向にお金は減らない。九十歳まで生きたとしても、毎日十一万円は使わないとお金が余ってしまう。
茂は久しぶりに明治神宮にお参りに行った。その帰り道、後ろを歩いていた、二人連れの女性の一人が茂に声をかけた。
「あの、もしかして」
茂は振り向いて「何か」「… あれっ、多喜田みどりさん」と言った。
はい!
「そう。そうです。鴻崎さんお元気でしたか」
うーん、
「元気も何も毎日遊んで暮らしております」「今日はどうしてこちらに」と茂はみどりに聞いた。
「こちら、ベトナムのお友達、ミン・ハインさんと東京見物です」
「ほう」
「初めましてミン・ハインと言います。ハノイから来ました」
「日本語お上手ですね」
「いえ、ちょっとだけ」とハインは指で仕草を作った。
みどりは「三人でお茶しましょうか」と言い、竹下通りのスターバックスに入った。
聞けばベトナムでは、第一外国語が日本語になったと言う。アジア、いや世界でも、最初の快挙である。それで日本語をマスターするために訪日したらしい。
茂は「日本語学科の先生になるの」と聞いた。
「はい」
茂は台湾もベトナムも、ゆくゆくは日本連邦になるに違いないと思っていた。
「では子供たちの教材となるような、絵本とかドリル、童話集、日本昔話などを、ハインさんの学校に贈りましょうか」
「いえ、そこまでは」
「貰っちゃいなさいよ、このかたはお金持ちなのだから」とみどりが言った。
「そう、贈与ではないよ。後でベトナムのお話などを送ってもらい、読ませて頂きますので」
ふうっ、
やばかった。
一切寄付はするなとの約束を破るところだった。
茂はメモ帳を取り出して「ここに送り先の住所を書いてくれる、後で拡大コピーして荷物に貼るから」と言った。
ミン・ハインは学校の住所を書いた。
みどりは間近で茂の顔を見つめていた。端整な顔立ちでかなりの好男子である。みどりのタイプでもあり自ずと顔は赤るみ、心拍数が上がるのを覚えた。こんな感覚はみどりにとって初めての経験だった。
茂はみどりと携帯番号の交換をした。そして明日の日曜日の正午、桜木町の改札口で会う約束をして二人と別れた。
次の日、改札口で合流した二人は、みなとみらいの観覧車に乗った。
「これ一度、乗りたかったんだ」
「一人じゃ恰好がわるいもんね」とみどりが言った。
観覧車はゆっくりと回り始めた。
「この一年間で、お金はどれくらい使ったの」
「まだ七百万円」
「へー、たったそれだけ!二十五億円もあるのに」
「九十歳まで生きたとしても、毎日十一万円は使わなくてはいけないんだ」
「毎日十一万円!」
「協力してもらいたいんだが、どうかな」
「えー、それってプロポーズ」
「そう、だめか」
…
「いえだめじゃないよ」
「本気」
「本気だよ」
「僕と一緒に、あちこち旅行するので、横浜銀行は辞めてもらうけど、いいの」
みどりはそれでもいいと言った。
それから二人は、赤レンガ倉庫の中にある宝石店に入り、茂はみどりに婚約指輪を買ってあげた。次に二人は住居を探し始め、横浜市中区元町にある3LDKのマンションと、ホンダCX-Zを購入した。
茂とみどりは新居に越して来た。二人は、朝は中華街で美味しいおかゆを食べ、夕は横浜球場でビール片手にベイスターズの応援をした。
そして試合のない日は、ホンダのCX-Zを飛ばして、箱根の温泉宿に泊まりに行った。だがそれでも、二人で一日十一万円のノルマには至らなかった。
「お金持ちって、やっぱ、かね減らねえもんだなあ」
「茂さんの小さかったころは」
「とっても貧しかった」
「あんなお金持ちがいたのに」
「たぶん勘当されてたのじゃないのかな」と茂は嘘をついた。
ふうっ、
やばいやばい。
…
「なあ、籍を入れるか」
「いいわ」
「式は挙げられないけど、いい」
「いい」
「お友達に大変なお金持ちだとバレちゃうものね」とみどりが言い、机の引き出しを開けて、婚姻届けを見せた。そこには証人の名前と判子も押してあった。
「うーん、」と唸って茂は笑った。
…
翌日二人は、中区役所に婚姻届けを出しに行った。そして茂はみどりの口座に「何かと物入りだろう」と十億円ほど振り込んだ。
悩みがないってことは好いことだ。みどりはますます美人になった。二人とも貧乏性なのか、お金の使い道を知らない。さあてどうする。
「今日は何して遊ぼうか」
「焼肉!」
「うん、それからカラオケにも行こう」
中区役所前でタクシーを拾い、伊勢崎商店街の前で車を降りた。そして安楽亭で焼肉を食べ、隣のビルの4Fにある歌広場というカラオケ店に入った。
飲み物を注文して、薄暗い照明の個室に入った二人は、激しく抱き合い唇を合わせた。店員が酎ハイとポテトスティックを運んできた。二人はまず都はるみと岡千秋の「浪速恋しぐれ」を歌った。♫…笑う二人に、笑う二人に、浪速の春が来る…♫
…
「ねえ茂さん」
あのね。
「私たちを見て閻魔様はお怒りになられるかしら」
「そんなことはないと思うよ」
「だって悪いことは何もしてないし、欲にかられて、今のお金を増やそうともしてないでしょう」
…
「パナマ文書に書かれている習近平とか、孫正義とか、アグネスチャンらの隠し財産と違ってさあ、腹黒い欲がないもんな」
「そうね、そうだよね、」と言って、みどりは酎ハイを一気に飲み干して、茂の唇を奪い、舌を絡ませてきた。茂はそれに応じた。甘い感触で…、
気持ち…よかったあ。
次の日、「茂さんはどこで生まれたの」とみどりが聞いてきた。
「あ、話さなかったっけ。生駒の小明稲蔵神社の本殿だよ。いかるが三十六峰の一つで、天孫降臨の地でもあるんだよ」
「へー、凄いじゃん。天使さまだあー」
「じゃああ、あした親父の墓参りを兼ねて行ってみようか」
「行くいく」
二人を乗せた新幹線は京都駅に着き、奈良線から近畿鉄道に乗り換え東生駒で降りた。そしてタクシーを拾い稲倉神社の鳥居の前で停った。一の鳥居、二の鳥居をくぐると、懐かしい我が家の廃屋があり、さらに幾つもの鳥居を抜けると稲倉神社の本殿があった。
茂はご神体である烏帽子石(えぼしいし)の裏の祠の前に花束を添え、手を合わせて「奈良丸さんありがとう」と言った。
「奈良丸さんって」
「親父だ」と茂は言った。
「あ」
「あっ」
「見た」
「見えた」
本殿の真上から透明な球体が空高く昇って行った。
ー稲蔵神社ー
横浜に戻って来た二人は稲倉神社で拾ってきた小石を神棚に置き、朝な夕なに柏手を打ち、日々の平安を感謝し、祈った。
するとある日、一人の男が訪ねて来た。
「ごめん下さい」
茂は戸を開けた。見るからに上品な紳士であった。「鴻崎茂さまですね」
「はい」
「私はこういうものです」と名刺を渡された。名刺には「取締役社長、豊田喜一郎」と書かれてあった。
「あの有名な自動車会社の」
「そうです」
「ま、ど、どうぞお入りください」と茂は言った。みどりはお茶を入れて、テーブルの上に置かれた名刺を見てびっくりした。
「実はですね、」と喜一郎は話し始めた。
「父が、つまりわが社の会長が先日亡くなりまして、父の遺品を整理していましたところ、あなた様のことが書かれた調査依頼書がありまして、こうしてお伺いさせていただいた次第です」
「はい」
「実はあなたと私は、実の兄弟です」
「はあっ」
「さぞ 驚かれたことでしょうが、あなた様は、父と愛人の間に儲けられた私の弟です」
「はあっ」
「親父はその頃忙しくしており、愛人であるその娘は、あなた様を連れて生駒に帰られたそうです。まだ若いその娘だけでは育てきれずに、稲倉神社の本殿の前に置いて来てしまわれたそうです」
「はあ」
「そして鴻崎奈良丸ご夫婦に拾われ、大切に育てられているものだと親父は思っていました」
「はい」
「ところが、あなた様たちご夫妻が大変なご苦労をされておられたことが、のちのち興信所の調べで親父の知ることとなりました」
「はあ」
「父の遺言状には、あなた様のことは書かれてありませんでしたが、私の一存ではありますが、財産分与を致します。どうぞこれを受け取って下さい」そう言って豊田喜一郎は十億円の小切手を茂に渡した。
「それは、どう、も…」
しかしなあ…
あの二十五億円も実の父からなのか…、二重取りになると不味いかなと思い「うーん、どうする」と茂はみどりに聞いた。
「ハインちゃんのこともあるし、ここは頂いておけば」とみどりは言った。
「それはどういうことですか」と豊田喜一郎が聞いてきた。
「小学生からベトナムの第一外国語が日本語になるそうで、それでベトナムの先生方が日本語を学びに来ておられます」と茂が言った。
「第一外国語が日本語に!」
「それも小学生から!」
「はい」
「それは素晴らしい。本当に素晴らしい。是非わが社がスポンサーになります。ベトナムに工場を建てる計画もありますので、経済的な支援はもちろん、人材も任せて下さい」と喜一郎が言った。
「土地建物、それに日本語教師も、わが社と、おそらくは大手の製造業社も負担するかと思います」と、世界的に有名な自動車会社の代表取締役社長が言った。
「ではここに、一度 連絡してみたらいかがですか」と、茂はハインが書いた学校の住所を渡した。
その夜、茂は「どうする、またお金が増えたぞ」と十億円の小切手をひらひらさせて みどりに言った。「もう知らない!」と、みどりは布団の中にもぐりこんだ。
そして布団から顔をのぞかせ「あしたベイスターズ勝つかなあ」と言った。
「了」
by hirosi754
| 2016-04-17 19:07
| 小説