「天草島原の乱」神曲より抜粋1

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- 天草の地図 -


               (1)
a0144027_9394958.jpg 豊臣秀頼公は元和元年五月七日、大阪夏の陣のおり、曲輪の避難用に作られた矢倉に、今は真田が率いる赤備え隊の、セムこと益田甚兵衛の先導で入り、セシル(守護神)は月に雲をかけ、辺りを漆黒の闇とした。そして抜け道を通って城外へ脱出し、小舟で淀川を下り大阪湾口で待機していた島津家の軍船に移乗し、直ちに薩摩へ向かった。

 薩摩藩にあって この脱出作戦に当たっていたのは伊知地兼貞、藩の隠密集団の首領であった。「ここはひとつ 日の本の大事、徳川一味、家康ば 懲らしめんと、よかか 見ておれ」と、伊知地兼貞は思いを廻らしていた。

 秀頼公は 薩摩の谷山郡福元村の豪商、谷山家に装いを解き、その後、谷山家の奥まった座敷に常住し、谷山家の息女さとを側室にして 秀綱を儲けた。
 この谷山の里に 大阪夏の陣が終ってから、二百名以上の将士達が入ってきて、この里に木下郷と呼ばれる集落が、突如として出現した。この時のことを 京都地方の子供達の間に、こんな童歌が唄われた。
 

 花のようなる秀頼さまを
 鬼のようなる真田(益田甚兵衛)がつれて
 退きも退いたよ加護島へ
 と、


 関が原の役以来、薩摩一国だけは鎖国体制をとり、常に戒厳令下においた。それだけに幕府は、薩摩の実情を知ることに腐心し続け、薩摩に潜入する隠密は数知れず、薩摩飛脚とも呼ばれ、二度と江戸の土を踏む事は出来ないと言われていた。
 なれない薩摩弁に怪しまれ、「おまんは何者でごわすっとか、何んばしに薩摩に来とらすとか」「ここはお前んらが来っとこじゃなか」と 鍬を持った百姓達に、追いかけられる始末であった。

 豊臣秀頼が谷山で儲けた羽柴天四郎秀綱は、小西家の浪人、益田甚兵衛好次の子、四郎時貞十六歳とし、天草、島原地方に喧伝させた。セムはこの子に霊道を開かせ、天草の村々を見聞させ、その人々の暮らしぶりの惨状を見させた。
 こうしてセシルは全てを理解した。
 セムこと益田甚兵衛が、天四郎の親代わりになるのである。そして悪政に苦しむ、天草、島原の領民を助けよという、神の意図が分かった。
 たとえ犠牲者がたくさん出ようとも、天草、島原の民が、この先何百年か、少しは楽に暮らせるようにと、神がセシルを遣わされたことも分かった。また、単なる一揆で終っては、まだまだ悪政が続く、ここで一泡も二泡も吹かせなければ幕府も乗りこんで来ない。

 甚兵衛も、自分がセム、敦盛だったことが分かっていた。そういえばここの所、横笛は吹いてはいなかった。迫り来る悪夢を払拭するかのように、その節くれだった指で、笛を吹き始めた。美しくも哀しいその笛の音は、山村の小川に吸い込まれていった。



               (2)
 自分が高天原の神々の末席にいて、その山懐の庵に 今では行き来できるようになっていた。それで秀頼の子を預かり、法力を教え、セム(甚兵衛)ともどもに人々を驚かせた。四郎の名は、天草、島原地方に広まった。

 「うーん、成る程、それで私に大国主の神様が、セムを助けよと申されたのか」
 「ああ、これで合点がいった」
 「そうとなれば尚更 役の小角さまと仙術を使ってセムどのを応援しなければなあ」とセシルは思った。

 このセム、益田甚兵衛の子、これが後の島原の総大将にして、天草四郎時貞と名乗った。そしてこの優美な天才少年は、三万七千人を率いて、幕府軍十三万を相手に、大蛇となり果敢なる戦いを挑んだのである。
 天草四郎時貞の残した奇蹟の数々は、セム(甚兵衛)と天上のセシルの合作であった。大阪夏の陣以来、徳川政権にこれほど堂々たる戦いを挑んだ者達はいない。しかも、天草四郎時貞と共に、三万七千人が、ことごとく死んでいったのである。

 益田甚兵衛好次は、小西家が滅んだ後は、真田信繁(幸村)の組織した、赤旗隊の武辺であった。
 三途の川の渡し賃である「六文銭」の旗印は、東軍の真田家に遠慮をして用いてはいなかった。セムは大阪城が陥落すると、密かに秀頼を薩摩に逃がし落延びて、故郷、天草大矢野島の里に帰り農夫となった。
 帰農して、田畑を耕す身とはなっても、何時の間にか天草はもとより、肥後熊本、薩摩加護島の、旧豊臣恩顧の隠れた方々の尊敬を一身に集めるようになっていた。



               (3)
 ここに日本史に類を見ない大極悪の領主たちが出て来た。
 その一人は、「島原領主、松倉長門守重政」 この男、後にキリシタンの亡霊にうなされ、熱病で狂い死んだ。これが一人。
 更にあくどいのが、「後を継いだ松倉勝家」 いわゆる二代目の暗愚である。農民が餓死すれば 年貢米も取れまいに、それすらも分からず、更に年貢米を倍増した鬼畜であった。これが二人目。
 そして更に極悪非道の限りを尽くしたのは、「松倉家の家老、多賀主水」である。キリシタンの人たちを、雲仙の地獄谷の熱湯の中に、背中を切り込み放りこんだ。これで三人目。
 まだある。
 更なる極悪人は、小西行長より天草島を奪い取った「備前唐津藩主、寺沢志摩守堅高」と、天草富岡城の「城代家老、三宅藤兵衛重利」である。この「五人」は、想像を絶した、万死に値する過酷な悪政を、二十年にもわたって続け、天草島原の領民は、重税と飢饉で餓鬼道に泣き、朽ち果てた。まさに虐政と凶作の地獄絵図であった。


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a0144027_19241235.jpg 更にあろうことか、
 家を改築すれば改築税を取り、囲炉裏を作れば囲炉裏税、窓を明ければ窓税、棚をはめれば棚税、畳を敷けば畳税、死者を葬れば墓穴税、赤ん坊が生まれれば頭税といった有様で、
 食い物はどんぐりの実を拾い、葛根蕨(クズわらび)を掘り、草木の葉を摘み、あらめ、ひじき、おこ、青のり等を食していた。そしてこの夏も特に、ひでりが続いた。


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 …
 「ねずみじゃなかもん」
 「こげんもんしか食えんかったら、おうはもう死にたか」
 「おうも死にたか」
 「小西さまが、懐かしか」
 と言って、首をつる人が出はじめた。
 …

 更に更にあろうことか、
 定められた租税を支払う事の出来ない人々には蓑を、首と胴に結びつけ両手は後ろ手に固く綱で縛られ、この蓑の外套に火を放つのである。この悲劇は蓑踊りと呼ばれた。転げまわり、全身が火だるまになる。

a0144027_19544513.png  また更に婦女子には、直視は出来ない辱めの限りを尽くした。辱めをうけた婦女子は、自ら河に飛び込み自殺した。この農民虐めが二十年に亘って各所で行われていた。
 こんな領主が、日の本の国にいたのである。信じられるであろうか、国辱である。


 これには日本の神々が怒った。「この、痴れ者共め、神々の処女地を何と心得ておる、」「このたわけ共めが、」と仰り、セシルを使いに出されたのである。
 さっそく閻魔大王に、来た時には魂とはいわず本体の霊ともども痕跡も残さず溶かしてしまえと仰せになりました。地獄に入れるのですら穢れるとも仰りました。それでもその魂の残滓が地上に落ち、貧相な一代限りの蛙となって、荷車に轢かれる定めであった。後は宇宙の塵にもなれず、永遠に姿を消すのである。

 飢餓ともなると、何としても食物を手に入れるしかなく、家族を守るためには虐政と戦うしかなかった。
 天草、島原の領民たちは、今や窮鼠の状態に追い詰められていた。領民は生ける屍で、天草島原の乱は、起こるべくとして起き、豊臣ゆかりの家臣団の武将らが戦術を教え、一糸乱れぬ統率をして、大阪夏の陣の遺恨を晴らそうと、天草、島原の人達と決起したのである。
 多くは小西行長の遺臣団と、薩摩に隠れ忍んでいた、豊臣家恩顧の名だたる武将達であった。それを幕府はひたかくしに隠して、キリシタン禁令の戒めと称して、後世まで続くように、嘘で嘘を塗り固め、キリシタンの乱に仕立て上げたのである。この世ではそのように教えられたことも、死してから本当のことが、全て分かるのである。セシルは嘆き、セムも嘆いた。



               (4)
a0144027_9471875.jpg 寛永十四年(西暦1637年)八月の中旬頃から、不思議な話しが伝わり出した。
 救いがもう直きあるという。その救いの予言を伝え回っているのは、天草の大矢野郷、千束島に、二十数年前から帰農している 四人の浪人であった。すなわち、大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江源右衛門、森宗意らである。天草の浪人だから、小西行長の遺臣たちである。
 小西家が潰れ、早三十七年の歳月が流れている。

 …
 「こんまんま、朽ち果てんのば待っとっても口惜しかとぞ」
 「おう、そぎゃんこつたい」 「刀が錆びよっとばい」
 「死ん花の、一つや二つば咲かせてみたかな」
 「見とれよ、そんうちに、偉らかこつば 見せてやるばってんが」
 「今んうちに、刀ば砥いどかんばな」と武者震いをしていた。
 皆々、五十や六十を越えている。
 …

 豊臣秀頼の一子、羽柴天四郎こと天草四郎時貞であってこそ、豊富な豊臣家の財宝を軍資金にあてることが出来たのである。 太閤秀吉は不安を感じ、細心の用心のために、膨大な遺産を、あちらこちらに埋めて秀頼のために残していた。
 秀頼が薩摩へ脱出した直後、伊知地兼貞ら薩摩の隠密一味らが、密かに 多田銀山から掘り出し、薩摩に送り出した、四億五千万両にもなる金銀である。
 軍を起すにしても、同士の呼びかけで豊臣系浪人の千や二千は集まるであろうが、それではとても戦いにならない。そこで天四郎は、虐政に追い詰められている天草、島原の領民を立ち上がらせる作戦を立てたのである。
 この一揆は、天草四郎に統率された幕府への遺恨軍であった。そこで早速、天草、島原両地区の各村の庄屋、名主達へ廻状が配られた。


 「こは、百姓のみが結びし一揆にあらず。軍師は元真田の赤備え隊長、天草甚兵衛殿を始めとし、各々が大将は、全て元和大阪の陣にて名を馳せし、一騎当千のつわもの揃いにて候。この壮挙に馳せ参じた腕に覚えのある浪人 一千二百五十名は、いずれも主家を滅ぼされた面々でござる。皆々敵討ちにてござ候」と記るされていた。


a0144027_9511245.jpg 島原の領民達が武力蜂起したのは 十月の十五日だが、天草はそれより十二日も遅れて決起をした。益田甚兵衛は、天草、島原両地区の作戦を、綿密に計算しながら指揮を取っている。
 セシルが甚兵衛に、雲上から下界の様子を思念で送った。それから役の小角殿も、仙界から降りてこられた。いよいよである。

 加津佐村では、代官の山内小右衛門と安井三郎右衛門が、三十人余りの一揆勢に鉄砲で撃たれて討死にした。「ばかにしくさって」「おうが娘ばいたぶり、首ば吊らせたのはお前のせいじゃなかっとか」「こん、ばかたれが」と言い、
 次いで小浜村では、千々石、小浜、串山の三ヶ村を管轄していた代官の高橋武右衛門の邸に、一揆側が押しかけて放火し、「思い知ったか、こん恨みば」と武右衛門は、鍬や鳶口や棍棒などで叩き殺された。



               (5)
 その次の日、島原城を出発した城兵が 南に三里ばかりの深江村に到着してみると、そこには、なんと一千名を超す一揆勢が集結して待機していたのである。いよいよ最初の戦端が開かれた。
 この深江村の激戦で、島原城側は騎乗の 士分五、六人と、兵百人ほどが死んだ。一揆側も二百人余りが戦死している。その死んだ百姓に「こん恨みば、必ず取ってやるばってん」と言い亡骸を片付けている。

 「悔しかろうなあ待っていてくれよ、おうが仇ば討ってやるばって」と言っていた。一揆側には、堂崎、布津などの領民も続々と応援に駆けつけ二千余名に脹れあがり 女性も武器を手にして加わっている。

 城を三方から囲むように布陣して島原城を攻撃する態勢をとっていた。城内では救援軍を待ちながら籠城しているが、戦力としては二千程で、それに対する島原の一揆勢力はすでに一万八千と数えられていた。
 そして天草は島原の決起に遅れること十二日にして、全島の一揆への態勢は整ったのである。天草は備前唐津の寺沢堅高の領地になっており、富岡城の城代、三宅藤兵衛が統治していた。

 「なんも怖わかごつなかっと」「あん城におった侍と、相撲ばしたばってんが、おうよりも、力が弱かったとばい」と百姓たちが言い、四郎たちも、富岡城などは恐れてもいなかった。城兵は百余名、足軽、人夫なども三百余りで、本藩の唐津から援軍が来るには、船をしつらえ、時間がかかるだろう。それまでには全島を支配化に収められるであろうと、四郎達は考えていた。
 城代の三宅藤兵衛はしかし、一揆は対岸の火だとみて、楽観をしていた。罹る災難を予知すら出来ぬ、凡愚であった。

 そして次ぎの日、一気に天草の一揆は起こった。
 この頃既に大矢野島と天草上島の一揆戦力は、五千余名になっており、上津浦の城塞に集結していたのである。藤兵衛は、始めて意外な状況に驚愕し、早速討伐隊を出そうとしたが、とても勝ち目のある兵力ではない。しかし、援軍の遅いのに業を煮やし、城兵などで軍団を編成し、援軍が来た頃は出陣した後だった。


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 援軍はこれを追って、翌日には天草下島の本戸(現在は本渡と言う)に軍団を進めていた三宅藤兵衛に合流し、城側の総数は千五百人となった。この勢力で天草上島下島と大矢野島の一揆側の討伐に出撃する態勢を構えたのである。

 城代の三宅藤兵衛は、陣頭に出て指揮を取り、奮戦はしたが、従う者百八十人が死傷し、自らも深傷を受け、もはやこれまでと、正午頃には自刃してしまった。
 一揆軍は、三宅の首級をとって高く晒し、勝鬨をあげた。
 「天草の百姓ば、ばかにしよって」とその頭を蹴飛ばした。ころころころころと斜面を転がり、赤く血で染まった、天草本戸の河の中に、落ちた。
 主将を失った城兵は、一揆の大軍勢に追われ、命からがら富岡城に逃げ戻った。その後には、武器、弾薬、兵糧、軍馬などが無数に遺棄されていた。
 こうして天草は、伴天連衆の島になったのである。




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by hirosi754 | 2015-01-01 08:59 | 小説 | Comments(0)