「天草島原の乱」神曲より抜粋2

055.gif「昭生と朱美」 「神曲」エピソード1 「二人の酔っぱらい」エピソード1 「洞窟での出来事」野良猫との再会 「覚永和尚」 「みどりと信夫の大当たり」 「仙人候補生」と姉弟 「二人の酔っぱらい」1-2 「神曲」第一部1-56 「神曲」第二部57-78 「亜衣姫と羅夢王」1-7



               (6)
a0144027_1003612.jpg キリシタン信者である有馬家が、日向延岡に転封された後、元和二年(西暦1616年)に、長倉長門守が領主になり、二年ほど日野江城にいたが、島原城を築いて移り、日野江城は廃城になっていて 荒れ果てていた。これが原城である。
 島原湾に面してそそり立つ、その優美な姿は、紅の落日に映える華麗で、しかも堅固なる名城であった。

 四郎たちは、この廃城に着眼して、十二月一日から昼夜兼行で城の補修工事を取りおこなった。
 「良かよか、そげん細かこつばしよったら、日が暮れよっとばい」
 「何ば言いよらすとか、そぎゃん急ぎなさって、きちんとやらんば。おうはもう腹ば決めとっと、何時死んでんよか、時間はちいーっとも気にしとらんとばい」
 と言いながら、一揆軍の原城は、わずか七日間で修築が終わった。

 城内には地下道が縦横に掘られて通路とし、石垣の上に堀を巡らせ、二歩ごとに銃眼を明けている。一揆軍には、これだけの築城を心得ている者はいない。やはり大阪城の家臣団で、真田の赤備え隊の他、相当な軍師たちがいたのである。
 そして小銃二千挺、弓二百張、長刀二百挺、槍百本、小槍、竹槍、薙刀などの武器の外、米一万石、雑穀五千石が、運び込まれた。こうして一揆軍三万七千人が、原城に立て篭もった。
 城中の人数は、働く者一万三千、総力戦のときは二万三千、その内には、金掘り人三名、天草、島原でもない将士たちは三千名を超え、後は、女、子供、老人たちも入っていた。女子供は、金掘り人と共同で、穴掘りを手伝っていた。



               (7)
a0144027_10132625.jpg 天草丸の出城の、所々雑草が生い茂った、城壁の上の原っぱに、天草四郎時貞が全員を集め、透き通る声で言った。

 「私だけが神の子ではない、全員が神の子であり 人の子であります。私らの血の一滴一滴が、天草、島原の子孫への贈り物となりまする」
 「今後もう悪政を敷かせぬよう、一粒の麦となり、死してこそ、その実りのほどが得られようぞ。天草、島原の領民の戦いが、どれほどの物か、眼にもの見せる時期がいよいよ到来致しましたぞ」と言い、
 「私の法力で皆々さま方を惑わした事は素直にお詫び申します」と頭を下げ、「私には皆々さま方のご助勢がなにより必要でありました。世直しは、皆々さまの戦い方如何でお決まり申す。子々孫々が幸せに生きんがための我等が戦いであり、何としてでも幕府を引きずり出し、悪政の中でもがき苦しむ領民の姿を、天下の下に知らしめるべき、絶好の好期が来ております。諸霊みな我等が味方にて、この戦い、天空の果てにまで轟きまするぞ」と言った。

 その声は静寂の中、原城の草木、本丸の柱、床、地下道まで染み渡っていった。二万三千人の人達が、目に涙を浮かべ、流して、聞いていた。
 そしてこうも言った、
 「これはデウスの戦いにはあらず、子々孫々のための戦いであります」

 女、子供、老人が、薙刀、斧、竹槍をもって聞いていた。その者達に今のうちに逃げなさいと言ったが、彼らは もはや帰る所がない、と四郎に言った。その老人は蓑踊りで、全身火傷の傷跡があった。「爺さま、すごか肝っ玉ば持ちよらすとばいなあ」と皆の衆が言った。

 セシルは雲上より原城の周りを見て、役の小角殿と、「やはり、守って三ヶ月だな」と御二人は思われた。おぞましい出来事が、間近に迫って来ている。そのお蔭で天草は天領となり、今より暮らし向きが好くなることは分かってはいたが、セシルは、これから起こるであろう凄惨な地獄絵を感じて、身震いがした。それは、天草、島原の衆の腹の据わり方が、尋常ならざる九州男児の、いや女子も含めて、意地の見本中の見本であったことにある。

 役の小角殿が「人とはな、死と隣り合わせとなった時、始めて、その真価が問われるものじゃ」と眼を潤ませ、「これも子々孫々のためかあ」とセシルは泣いた。



               (8)
a0144027_1817212.jpg 徳川幕府は、十一月十一日には、西国諸大名に帰国を命じ、それと同時に松平甚三郎行隆を目付けとして西国諸侯を監視するため九州に行く事を命じている。特にその監視の目的は、薩摩であった。
 この年、九州の諸大名は全て江戸に参勤中であったが、島津侯だけは病気と称して薩摩に在った。その最中の動乱である。島津侯の関係において、幕府では怪しんでいた。そしてこれは薩摩の隠密、伊知地兼貞が仕掛けた、柳生一族への遺恨でもあった。

 同月の二十六日、板倉重昌、石谷十蔵の上使一行は小倉に到着した。板倉達は、途中で島原の各村を巡視し、島原城に入ったのは十二月五日だった。一揆が勃発してから早四十日も経っており、強力な軍団に編成されて、堅固な原城を修築していたのである。
 島原城をいよいよ出陣した板倉重昌の率いる幕府軍が、有馬に着くその一歩先に、一揆軍は修築の完成した原城に入城してしまっていたのである。その天守閣から、「腰抜けが、早よう攻めてこんかい」と、大矢野松右衛門らが叫んでいた。金堀人たちは、まだ穴を掘っている。それは海岸線の入り組んだ岩場の陰の 小さい抜け穴に通じていた。


a0144027_17525337.jpg


 翌月の十日、幕府軍一万六千は原城を包囲したが、たかが農民勢数千人と聞いていたのに、訓練された大軍団が堅城に在るのを目の当たりにして、板倉達は驚愕したのである。鍋島をはじめとする一団は、上使の下知も待たずに城に向かって攻撃を仕掛けていった。
 「阿呆が」と、
 これはセシルと役の小角殿が、鍋島勢が戦功を立て天下にその名を轟かせている、自身の姿をイメージとして送り続けていたために、その気になって攻めてきたのである。敵の攻撃を、分断させるセシルの思惑にまんまとはまっていった。
 そして何処から攻めてくるのか、益田甚兵衛と、四郎に想いの念を送った。城側は、攻城軍が城門に近寄るまで静観し、一気に十時砲火を浴びせてきた。攻城軍はついに死傷者数百人を出して退却して行ったが、一揆軍は無傷であった。セシルと役の小角殿は、天草丸をいち早く本丸に入れさせ、今か今かと てぐすねを引いて、待っていた。

 そして、いよいよ二十日の明け方、
 鍋島軍は天草丸の城壁をよじ登って来た。城内は静まり返り、城兵の姿が見えないので、鍋島軍は一気に占領出きるものと安心した。その途端に本丸から矢と弾丸を横なぎに浴びせられ、百余の死傷者を出して退却していった。一方、立花軍も五千の兵力で大手三の丸に密かに迫ったが、城中から何の反撃もないので、城壁に取りついたその時、城の上から岩石が降り、熱湯が浴びせられ、更に集中砲火が襲ってきた。これでは耐らない。立花軍は、五百名近い死傷者を出して撤退していった。
 「おどんら島原の百姓ばみくびんなさったら、こげんこつになるとばい」と、煮えたぎる鍋の熱湯を降りかけた、島原の婆っちゃまが言った。

 二十日未明から開始された 第一次の城攻めは失敗に終り、幕軍は二千余の死傷者を出し、城内の損害はせいぜい二、三名で、板倉重昌は、日本中の嘲笑の的になった。



               (9)
 寛永十五年(西暦1638年)一月元旦の未明を期して、第二回目の総攻撃を開始した。 元旦だから、女子供の多い城内には油断があるだろうとの戦略だった。がしかし一揆方は、幕軍がそう考えて攻めてくるだろうと、予期していた。
 先鋒は有馬忠郷の率いる五千で、小雪混じりの雨の中、城の後門へ向かい、鍋島勝茂の一万五千は二の丸へ、松倉勝家の三千八百は三の丸へ、立花宗茂の五千は大手口へと三万の軍勢で原城に進撃することになっていた。
 セシルと役の小角殿は、有馬忠郷にも鍋島勝茂と同じく、次々と城内の者をなぎ倒し、戦功を立て、国中の喝采を受ける我が身の姿を思念で送り続けていたので、その気になって、何と、
 定刻より三時間も早く有馬勢が行動を起して、三の丸に攻撃を開始してしまった。
 「あっはっは、間抜けめ」と、役の小角殿が言った。
 このため軍略の手筈は狂い、役の小角殿の指示に従い、待機していた原城から猛攻を浴び有馬軍は千余名の死傷者を出して、小雨から雪になった六時頃には総崩れになった。有馬に替わって 松倉軍が三の丸を攻めたが、これも千名近くを失って退却。鍋島軍は二千五百名の死傷者を出し、立花軍も三百余りを失った。

 各軍の総崩れに苛立った備前唐津藩主、寺沢志摩守堅高は、再度、島原領主松倉勝家に陣頭に立たせ、攻撃をさせようとしたが、どの藩も動こうとはしない。
 ついに藩主、寺沢志摩守堅高も業を煮やし、「勝家、行くぞ、百姓相手に後世までの笑いものになるぞ」と堅高が言い、松倉勝家は二千八百の手兵だけを従えて、家老の多賀主水を先陣に立たせ城壁に迫ったが、主水らは脳天に集中砲火を浴び、天罰を食らい、白目をむいて絶命した。これで悪行の限りを行った、三人目が亡んだ。後二人いる極悪人、小西行長より天草島を奪い取った、唐津藩主、寺沢志摩守堅高と松倉勝家は、な、何と、二千の手兵と供に、恐れをなし、戦場から逃げ去った。

a0144027_1675764.png この日の総攻撃で幕軍は上使板倉の戦死をはじめとして、死傷者は四千名を越えていた。それに対する原城の一揆軍は、百人にも足りない死傷者であった。「何と無様な負け戦か、天草島原の百姓に負けるとは… 」と思いながら、上使、板倉重昌は死んでいった。


a0144027_17562712.jpg



               (10)
 一揆軍の首領といわれる天草島の四郎なる青年が、豊臣秀頼の一子ではないかと幕閣も内心感づいていた。もしもこの事実が天下に洩れたら、太閤恩顧の西国大名たちがどう動くか分からない。更に、徳川政権に恨みを抱いている浪人が、全国に二十余万人もいる。彼らは、生きる道を求めて島原に駆けつけるだろう。大阪夏の陣から、まだ二十二年しか経っていない。

 北風が頬を刺し、寒風が吹き荒れる中、セシルと役の小角殿は天空を飛んだ。攻城の幕府軍の総数は、各々色とりどりの旗指し物を立て、実に十二万五千八百余人という大兵力であった。幕軍は何と六倍も近い軍勢を、農民相手に集めていることが解った。
 島原の女子は、「そんで、九州男児かい」と怒鳴り、「情けんなか」と呟いた。「情けんなかぞうー」と更に大声で叫んだ。こうなると女子は更に強よくなる。「なんばしとっとかい、こん九州男子の面汚しが」「おうが首ば取んのんのが、そぎゃん難しかっとっとか」と再び大声で言い放った。

 老中の松平信綱は、翌四日、原城を望む有馬に着陣すると、彼我の状況を視察して廻り、侮るべからざる強敵であることを知った。そこで兵糧攻めの策を以って、作戦の方針にすることを決定した。城を囲む柵を作り、持久戦の態勢に持ちこんだのである。

 …
 ん。「あん幕府は、汚たなかこつばしとらす」と、柵作りを見ながら、
 ああ、「男らしゅうなか」
 「百姓相手に兵糧攻めちゅうこつは、侍がきいて呆れるとばい」
 ふん。「腰にぶら下げちょる大小は死に首ばとっためか」
 「物笑いの種じゃ。ばかにしくさって」と皆が言い合っている。
 …

a0144027_1831548.jpg 天草四郎は、ついに徳川幕府の大軍を総動員させて、天下分け目の大決戦にまで持ち込むことが出来たのである。そしてついに幕府は、オランダの軍船に助力を頼んだ。この一事で、天草島原の乱は、キリシタン一揆ではないことが分かる。
 デ、レイプ号に大砲を装備して 島原湾に向けて出航させた。オランダ側は、百発に及ぶ砲撃を加えた。そしてオランダ側の砲弾が、出丸の堀を二、三間ほど破壊した。そこを狙って鍋島の陣から撃ちまくったが、原城側も、射撃による応戦では後には退かなかった。原城側には銃の名手である猟師がかなりいて、マストに登っていた水兵が、城からの狙撃で撃ち落された。「情けんなか、デウスさまが聞いて呆れる」と島原の女子が言った。



               (11)
 薩摩の軍船が一艘、肥後熊本の軍船の前につき、原城の抜け穴を隠すように死角を作り、申し訳程度に、天草丸の出城をめがけて一発の空砲を撃った。これが合図であった。
 役の小角殿の仙術で、月には厚い雲がたなびき漆黒の夜となった。抜け穴から、女子供が、それに かなり身だしなみの良い少年達が、闇に待ち構えていた薩摩の小舟でみたび軍船の間を往来して、みたびとも帰り舟には、大量の小銃の弾を乗せて、暗闇に消えた。
 原城内は幕府軍の総攻撃を目前に控えて、食糧も弾薬も尽き果てていた。伊知地兼貞の子弟ら薩摩の隠密が指揮し企てた、薩摩の弾が頼りだった。

 …
 「ほんなこて、薩摩の人たちは、偉かこつばしよらす」「そげんこつたい」
 「肝の座った人たちばいなあ」と皆が思った。
 …


a0144027_10141340.jpg 兵糧攻めの包囲戦で、籠城八十日にも及び、幕府軍は戦わずして干し殺すことが出来たであろうが、二月二十一日に、抜け穴から討って出た決死隊の腹を裂いてみると、麦の葉のようなものしかなく、城内では兵糧が尽き果てていることが分かった。それで松平伊豆守は、二月二十八日の早朝を期して総攻撃を行うことを決定した。ところが前日の二十七日正午、二の丸の前に布陣していた鍋島軍が、またもや単独で攻撃を始めてしまった。
 よほど役の小角殿の仙術が効いてしまっているようだ。恩賞の誉に奢ごれる者は、すでに城中にまで斬り込んでしまっている。乱戦が始まってしまった以上、信綱は作戦計画を放棄して、一斉に総攻撃をするよう命じた。これは殺戮戦であった。

 ここに、三十七年ぶりに故小西行長殿と、二千九百人の つわものどもが、城側の加勢に加わった。ああ、天佑か、行長殿の亡霊を筆頭に、二千九百の つわものどもの亡霊が格闘をしている。敵兵には、その将士達の亡霊が見えているらしい。
 城側は、すでに十数日も前から絶食状態にあり、人は十数日も絶食すれば、皆、霊感が強くなる。小西行長殿の亡霊と、その将士達の亡霊が、敵軍を惑わし、城側に攻めやすい方向に、導いておられることが分かった。それで待ち伏せして、女、子供、老人たちが、小槍、竹槍などで一斉に突いて行った。

 原城軍は二の丸に集結して、雲霞の如く攻め込んでくる幕府軍に対し、果敢な防衛線に死力を尽くした。そのうち鍋島軍が出丸に火を放ち、この日の強い北風のため火焔は原城の本丸にまで燃え移っていった。

 小西行長の亡霊たちが、火炎の中を縦横に走り回っていたので、敵兵も燃え盛る城内に入っていった。この火災の中での激戦で、両軍とも死傷者は増大していった。

 小袖に火が燃え移り火炎となった女子が、手傷を負い必死に敵の侍にしがみ付いている。「今じゃ、いまじゃ」と、女子が奇声を発した。それで、老人や子供が、太刀や、小槍を持って、両名ごと刺し貫いた。日本史上、始まって以来の一人一殺の肉弾作戦、抱きつき作戦が、到る所で行なわれていた。
 火炎の中で女、子供が薙刀や小槍をもって、その火炎の外にいた奴ばらに、

 「なんばしとっとかい、そぎゃん火が恐かっとかい」と敵の侍に言う。
 「なよなよとして、女子のごたる」
 「おまんらは、玉は付いておらんのか」
とまた挑発して、

 
 「うぬ、言わしておけばこんあまが、なんば言いよるとか」と数十人がなだれ込み、火炎の中での殺し合いが始まった… と見る間に、天井が崩れてきて彼我ともに焼け死んだ。



               (12)
a0144027_1015898.jpg 翌二十八日の午前六時、最後の攻撃が開始された。
 半ば焼け崩れている原城の本丸との凄惨な殺戮戦が行なわれていた。原城軍は、しかし獄中にあった間諜 山田 右衛門作(やまだ えもさく)一人を残し、二万九千九百九十九名ほどの者が、最後まで見事に奮戦し、全滅していった。

 戦いは四時間ぐらいで終りを告げ、それを待っていたかのように耳を劈く雷鳴が轟き、功城軍の頭上に落ち、落雷で多数の者が命を落とした。そして、ひとしきり雨が激しく降り始めた。

 最後の二日間、原城軍は群がる敵の包囲に向かって実に勇敢に防戦した。城中にある総ての物を、しまいには婦女子たちが、天守閣より薙刀などを持ち「デウスさまー」と叫び、我が身を以って特攻とし、功城軍の頭上めがけて落ちた。そして堀の中に転がって行った。
 堀の深さは九メートル、幅二十二メートルもあったが、死人で埋まり、命のある者でも落ちこんだら最後、生きて逃げられなかった。さらに小西行長の亡霊達が、あちらこちらにいて、また引きずり、叩き落とした。
 備前小倉で食客となっていた五十五歳の宮本武蔵も、小笠原忠真に従軍していて、武蔵も城攻めに駆け寄ったが、城壁の上から女、子供の投げる岩石に当たって、滑って転んで、そして落ちた。

 動乱後、島原領主松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から、大名としては前例のない罪人としての扱いで斬首に処せられた。また備前唐津藩主、寺沢志摩守堅高は発狂し自殺した。そして、予てよりの約束通り魂も溶かされ、魂ぱくも溶かされ、その残滓が一代限りの蛙となって、轍に轢かれ、干からびていく定めである。悪政の限りを尽くした 都合これらの「五名」の者は、天にも地にも、宇宙の果てにも、もういないのである。
 動乱勃発以来、幕府軍の層々たる将士たちの死傷者は、およそ二万人にも上った。

 数日来の雨が打って変わって日本晴れになり、みな精気を取り戻し正気になって、役の小角殿に導かれ、また天使にも導かれ、皆々さまを天上へと連れて帰って行かれた。そして、セムとセシルと四郎も、天空へ上って行った。小西行長様と、その将士たちも、天上の人となった。

 薩摩が官軍となり徳川幕府を倒すまで、二百二十年という長い間、ほとんどこの国は、惰眠を決め込み、悪戯に時が過ぎていった。
 「ああ、」天草、島原の民は良く戦い、大きな犠牲を払い 一粒の麦となった。その麦の一粒に、幸多からんことを、心より願う。


「了」
a0144027_7321717.jpg









ブログランキング・にほんブログ村へ  にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ
[PR]
by hirosi754 | 2015-01-01 08:43 | 小説 | Comments(0)