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「神曲」 57-63 第二部



 「第二部」

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 セシルは思い出していた。
 仙界の我が石窟でできた庵の前の、岩肌に漂う霞を見ながら、セムと始めて出会った、あの時の頃を思い出していた。セシルは天空から 輝く球体として地上を見下ろしていた。神々の御申しつけもあり、その真の狙いはまだ分からなかったが、「甚兵衛を守れ、セムを守れ」 何ゆえなのか、これは神々から堅く申し付かってきたものであった。

 昨夜来の豪雨はようやくあがったが、関が原一帯は、まだ濃い朝霧に包まれていた。慶長五年(西暦1600年)九月十五日、東西両軍の天下分け目の関が原の当日、午前八時、法螺貝が低く鳴り渡り、陣太鼓がとどろいた。いよいよ合戦の始まりである。



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 右手の徳川軍のなかから、赤一色の物具で身を固めた、物見の一団が踊り出て伏せた。 と見るや、徳川の先鋒を掌った福島隊が、一斉に火蓋を切った。「うおおっ」という、怒号のような雄叫びが両軍より鳴り響いてきた。
 セムは西軍の小西行長の陣中にいる、今は、益田甚兵衛好次と名乗っていた。「甚兵衛を守れ、セムを守れ、」何ゆえなのか、神々の意図が、この時のセシルには分からなかった。

 豊臣家、家臣団における武将派と奉行派の反目は、慶長八年(西暦1598年)の八月十八日、秀吉の死去と同時に徐々に高まっていった。こんな状況下では、朝鮮征伐の後始末にもとどこうり始め、三成は、武将派諸侯の無理難題に窮地に立たされていた。この窮状を救ったのが小西行長の人望であった。そこで奉行派大名の代表者ともいうべき石田三成が手厚く扱い、行長も次第に味方するようになっていった。


「神曲」 57-63 第二部_a0144027_1695642.jpg 地元の百姓が言う。
 「田小作、おい、田子作、ああ良かったよかった、大変な事になるとこじゃったぞ。もう少しで食い物が踏み散らされるとこじゃった」
 「なんじゃい、何が良かっただか」
 「いやーな、聞いた所によると、石田様がここんとこの、赤坂の岡本の本陣でな、どえりゃあー一大決戦をおっ始めるつもりでおられたらしいだが。なんでも、小西様や、宇喜多様、島津義弘、豊久の殿様なんかと大垣城に立て篭もってな、東海道をこっちに向かって来よる家康様と、一戦おっ始めるつもりだったらしいんだわ」
 「そりゃ大変じゃ」
 「ところがな、徳川様の方がじゃ、大垣城を攻めずに関が原を素通りして石田様が留守にしている佐和山を攻め落とし、大阪城に一気に攻め入ろうって、こういう計画を立てたんだと」
 「ふ~ん」
 「その計画が石田方の間諜の耳に入ってなもし、石田様も、さすがに慌てなさって」
 「うん、分かる、分かる」
 「急に作戦を変更して、ゆんべの大雨の中を大急ぎで、大垣城にいた全将兵を率いて、関が原に移動させたんだと」
 「んじゃ、関が原での大決戦てなわけか。いやあ、お前の言うように、もう少しでわしらの食い物が、踏み散らされるとこじゃったぞな」
 「うん、良かったぞなもし」 と言った。


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「神曲」 57-63 第二部_a0144027_20275861.jpg 小西行長の陣幕は、北天満山(標高197メートル)の杉木立の中に敷いた。キリシタン大名、肥後は熊本の宇土城の城主である。領民が飢饉に有った時には、年貢米を免除したり、城内の米蔵も放出して分配されたり、天草の検地も大目に見て、それはそれは領民に慕われていた。
 その行長軍は、寺沢志摩守堅高ら、東軍七隊の猛攻をよく防ぎ、耐えに耐えた。しかし、小早川秀秋の謀反後は、家康の旗本も出撃しはじめ、一段と強い圧力を受け 支えきれず、将兵たちは口々に、「裏切りじゃ、謀反じゃ」と、それは関が原の周辺の山々に木霊した。



 それでも兵卒たちは、行長様を伊吹山に逃げさせようと、獅子奮迅の戦いで 一歩も後には引かず、殆ど二千九百人全員が滅んだ。キリシタンの教えでは自刃も許されず、行長も幾人かの将士を連れて、伊吹山を目指して逃げて行った。無垢な天草の天使が待っているもの、ここは是非生きて帰らなければと、行長は思っていた。
 宇喜多秀家隊は正面の福島正則軍と、背後からの小早川秀秋に挟まれ これも全滅した。その隊にいた、宮本村の武蔵が生き延びていたというのが不思議なぐらいである。

 セシルは「あ、」と言った。
 あれほど神々に言われていた甚兵衛を守りきれず、益田甚兵衛好次が、わき腹を長槍で差され、二度、三度と宙に浮いて地に落ち、白目をむいて失神していた。まだ首がつながっている、助けられるとセシルは思った。
 天下分け目の大決戦も、午後二時半ごろには終わり、また雨が激しく降り始めた。

 セシルは甚兵衛の側により 仙術で血を抜き傷口を塞いで、意識を取り戻させた。見たところまだ三十才前後である。甚兵衛は朦朧とした意識の中で、目の前の大きな球体を見て、「ああ」デウス様が来られたと思った。
 「デウス様、こん見苦しか姿ばお見せして恥ずかしか」と言った。「ああ、いや違うちがう、なにを仰しゃられる」「私は、名はセシルといい、大国主の神様からの使いの者です」と言った。「ほんなこつ」と甚兵衛は素直に聞いたが、まだ訳が分かっていない。そしてセシルは、大きな球体から 人の形になり、セムこと益田甚兵衛好次を、肥後宇土郡江辺村まで連れて行った。セシルとセムが直接会ったのは、この時が始めてであった。
 「あげん戦さになっとっとは思ってもみんかった」「小早川秀秋めが、あん恩知らずが」「小西様は無事でいなさるじゃろうか」と甚兵衛は言った。
 その道中、首に鉄輪を填められ、駄馬にのせ大声で罪状を言触らし、「この者たちは徒党を組み、天下に乱を起こした」と、大阪と堺の町を曳き回されていく小西行長殿を哀れ見てしまった。
 「なんだとっ、まんで、違かこつば言いよる」と甚兵衛はいきまき、「ばかったれが」「こん阿呆どもが」と、今にでも 斬りこみそうになっている甚兵衛を、必死に必死にセシルは押さえた。他に、石田三成殿、安国寺栄瓊殿が曳かれ、京でも散々見世物にしてから、六条河原で首を飛ばした。
 「何という卑劣な狸爺じいか、」とセシルと甚兵衛は思った。その将軍のお蔭で、日本はこの先 二百三十八年間、鎖国政策を執り、殆ど無為にして、 惰眠を貪ぶるのである。もっと早く他国の手本と成るべき 天命を持った国で有ったのだが、またしても その将軍に大罪の一つが加わった。
 天御中主の神様は 閻魔大王に、この国の天命も解らず、悪戯に己と一族の余命に固執している その将軍が来たなら、その場で、その者の魂だけではなく本体の霊そのものを、もう要らぬから溶かしてしまえと仰った。で、溶かした。
 エネルギー不変の法則か、その残滓が今は蛙となり、何処ぞの沼地で跳ねている。生殖能力の無い、一代限りの蛙であった。そしてその卑劣な将軍に、恨みを抱いている数知れぬ者たちが、大蛇となり、その蛙を一飲みにしようと 待ち構えていた。







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「神曲」 57-63 第二部_a0144027_12341622.jpg 豊臣秀頼公は元和元年五月七日、大阪夏の陣のおり、曲輪の避難用に作られた矢倉に、今は真田が率いる赤備え隊の、セムこと益田甚兵衛の先導で入り、セシルは月に雲をかけ、辺りを漆黒の闇とした。そして抜け道を通って城外へ脱出し、小舟で淀川を下り大阪湾口で待機していた島津家の軍船に移乗し、直ちに薩摩へ向かった。薩摩藩にあって この脱出作戦に当たっていたのは伊知地兼貞、藩の隠密集団の首領であった。「ひとつ、徳川一味ば 懲らしめんば」と、伊知地兼貞は思いを廻らしていた。
 秀頼公は 薩摩の谷山郡福元村の豪商、谷山家に装いを解き、その後、谷山家の奥まった座敷に常住し、谷山家の息女さとを側室にして 秀綱を儲けた。この谷山の里に 大阪夏の陣が終ってから、二百名以上の将士達が入ってきて、この里に木下郷と呼ばれる集落が、突如として出現した。この時のことを 京都地方の子供達の間に、こんな童歌が唄われた。
 …
 花のようなる秀頼さまを
 鬼のようなる真田(益田甚兵衛)がつれて
 退きも退いたよ加護島へ
 と、
 …

 関が原の役以来、薩摩一国だけは鎖国体制をとり、常に戒厳令下においた。それだけに幕府は、薩摩の実情を知ることに腐心し続け、薩摩に潜入する隠密は数知れず、薩摩飛脚とも呼ばれ、二度と江戸の土を踏む事は出来ないと言われていた。なれない薩摩弁に怪しまれ、「おまんは何者でごわすっとか、何んばしに薩摩に来とらすとか」「ここはお前んらが来っとこじゃなか」と 鍬を持った百姓達に、追いかけられる始末であった。

 豊臣秀頼が谷山で儲けた羽柴天四郎秀綱は、小西家の浪人、益田甚兵衛好次の子、四郎時貞十六歳とし、天草、島原地方に喧伝させた。セムはこの子に霊道を開かせ、天草の村々を見聞させ、その人々の暮らしぶりの惨状を見させた。
 こうしてセシルは全てを理解した。セムこと益田甚兵衛が、天四郎の親代わりになるのである。そして悪政に苦しむ、天草、島原の領民を助けよという、神の意図が分かった。たとえ犠牲者がたくさん出ようとも、天草、島原の民が、この先何百年か、少しは楽に暮らせるようにと、神がセシルを遣わされたことも分かった。また、単なる一揆で終っては、まだまだ悪政が続く、ここで一泡も二泡も吹かせなければ幕府も乗りこんで来ない。
 甚兵衛も、自分がセム、敦盛だったことが分かっていた。そういえばここの所、横笛は吹いてはいなかった。迫り来る悪夢を払拭するかのように、その節くれだった指で、笛を吹き始めた。美しくも哀しいその笛の音は、山村の小川に吸い込まれていった。


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 自分が高天原の神々の末席にいて、その山懐の庵に 今では行き来できるようになっていた。それで秀頼の子を預かり、法力を教え、セムともどもに人々を驚かせた。四郎の名は、天草、島原地方に広まった。
 「うーん、成る程、それで私に大国主の神様が、セムを助けよと申されたのか」
 「ああ、これで合点がいった」
 「そうとなれば尚更 役の小角さまと、仙術を使って、セムどのを応援しなければなあ」とセシルは思った。
 このセム、益田甚兵衛の子、これが後の島原の総大将にして、天草四郎時貞と名乗った。そしてこの優美な天才少年は、三万七千人を率いて、幕府軍十三万を相手に、大蛇となり果敢なる戦いを挑んだのである。天草四郎時貞の残した奇蹟の数々は、セムとセシルの合作であった。大阪夏の陣以来、徳川政権にこれほど堂々たる戦いを挑んだ者達はいない。しかも、天草四郎時貞と共に、三万七千人が、ことごとく死んでいったのである。

 益田甚兵衛好次は、小西家が滅んだ後は、真田信繁(幸村)の組織した、赤旗隊の武辺であった。三途の川の渡し賃である「六文銭」の旗印は、東軍の真田家に遠慮をして用いてはいなかった。セムは大阪城が陥落すると、密かに秀頼を薩摩に逃がし落延びて、故郷、天草大矢野島の里に帰り農夫となった。
 帰農して、田畑を耕す身とはなっても、何時の間にか天草はもとより、肥後熊本、薩摩加護島の、旧豊臣恩顧の隠れた方々の尊敬を一身に集めるようになっていた。


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 ここに日本史に類を見ない大極悪の領主たちが出て来た。
 その一人は、「島原領主、松倉長門守重政」。この男、後にキリシタンの亡霊にうなされ、熱病で狂い死んだ。これが一人。
 更にあくどいのが、「後を継いだ松倉勝家」。いわゆる二代目の暗愚である。農民が餓死すれば 年貢米も取れまいに、それすらも分からず、更に年貢米を倍増した鬼畜であった。これが二人目。
 そして更に極悪非道の限りを尽くしたのは、「松倉家の家老、多賀主水」である。キリシタンの人たちを、雲仙の地獄谷の熱湯の中に、背中を切り込み放りこんだ。これで三人目。
 まだある。
 更なる極悪人は、小西行長より天草島を奪い取った「備前唐津藩主、寺沢志摩守堅高」と、天草富岡城の「城代家老、三宅藤兵衛重利」である。この「五人」は、想像を絶した、万死に値する過酷な悪政を、二十年にもわたって続け、天草島原の領民は、重税と飢饉で餓鬼道に泣き、朽ち果てた。まさに虐政と凶作の地獄絵図であった。

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 更にあろうことか、
 家を改築すれば改築税を取り、囲炉裏を作れば囲炉裏税、窓を明ければ窓税、棚をはめれば棚税、畳を敷けば畳税、死者を葬れば墓穴税、赤ん坊が生まれれば頭税といった有様で、食い物はどんぐりの実を拾い、葛根蕨(クズわらび)を掘り、草木の葉を摘み、あらめ、ひじき、おこ、青のり等を食していた。そしてこの夏も特に、ひでりが続いた。
 …
 「ねずみじゃなかもん」
 「こげんもんしか食えんかったら、おうはもう死にたか」
 「おうも死にたか」
 「小西さまが、懐かしか」
 と言って、首をつる人が出はじめた。
 …
 更に更にあろうことか、
 定められた租税を支払う事の出来ない人々には、蓑を、首と胴に結びつけ、両手は後ろ手に固く綱で縛られ、この蓑の外套に火を放つのである。この悲劇は、蓑踊りと呼ばれた。転げまわり、全身が火だるまになる。
 また更に婦女子には、直視は出来ない辱めの限りを尽くした。辱めをうけた婦女子は、自ら河に飛び込み自殺した。この農民虐めが二十年に亘って各所で行われていた。こんな領主が、日本の国にいたのである。信じられるであろうか、国辱である。
 これには日本の神々が怒った。「この、痴れ者共め、神々の処女地を何と心得ておる、」「このたわけ共めが、」と仰り、セシルを使いに出されたのである。
 さっそく閻魔大王に、来た時には魂とはいわず本体の霊ともども、痕跡も残さず溶かしてしまえと仰せになりました。地獄に入れるのですら穢れる、とも仰りました。それでもその魂の残滓が地上に落ち、貧相な一代限りの蛙となって、荷車に轢かれる定めであった。後は宇宙の塵にもなれず、永遠に姿を消すのである。

 飢餓ともなると、何としても食物を手に入れるしかなく、家族を守るためには虐政と戦うしかなかった。天草、島原の領民たちは、今や窮鼠の状態に追い詰められていた。領民は生ける屍で、天草島原の乱は、起こるべくとして起き、豊臣ゆかりの家臣団の武将らが戦術を教え、一糸乱れぬ統率をして、大阪夏の陣の遺恨を晴らそうと、天草、島原の人達と決起したのである。多くは小西行長の遺臣団と、薩摩に隠れ忍んでいた、豊臣家恩顧の名だたる武将達であった。それを幕府はひたかくしに隠して、キリシタン禁令の戒めと称して、後世まで続くように、嘘で嘘を塗り固め、キリシタンの乱に仕立て上げたのである。この世ではそのように教えられたことも、死してから本当のことが、全て分かるのである。セシルは嘆き、セムも嘆いた。


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「神曲」 57-63 第二部_a0144027_18454579.jpg 寛永十四年(西暦1637年)八月の中旬頃から、不思議な話しが伝わり出した。
 救いがもう直きあるという。その救いの予言を伝え回っているのは、天草の大矢野郷、千束島に、二十数年前から帰農している 四人の浪人であった。すなわち、大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江源右衛門、森宗意らである。天草の浪人だから、小西行長の遺臣たちである。小西家が潰れ、早三十七年の歳月が流れている。

 …
 「こんまんま、朽ち果てんのば待っとっても口惜しかとぞ」
 「おう、そぎゃんこつたい」 「刀が錆びよっとばい」
 「死ん花の、一つや二つば咲かせてみたかな」
 「見とれよ、そんうちに、偉らかこつば 見せてやるばってんが」
 「今んうちに、刀ば砥いどかんばな」と武者震いをしていた。
 皆々、五十や六十を越えている。
 …
 豊臣秀頼の一子、羽柴天四郎こと天草四郎時貞であってこそ、豊富な豊臣家の財宝を軍資金にあてることが出来たのである。太閤秀吉は不安を感じ、細心の用心のために、膨大な遺産を、あちらこちらに埋めて秀頼のために残していた。秀頼が薩摩へ脱出した直後、伊知地兼貞ら薩摩の隠密一味らが、密かに 多田銀山から掘り出し、薩摩に送り出した、四億五千万両にもなる金銀である。
 軍を起すにしても、同士の呼びかけで豊臣系浪人の千や二千は集まるであろうが、それではとても戦いにならない。そこで天四郎は、虐政に追い詰められている天草、島原の領民を立ち上がらせる作戦を立てたのである。この一揆は、天草四郎に統率された幕府への遺恨軍であった。そこで早速、天草、島原両地区の各村の庄屋、名主達へ廻状が配られた。

 「こは、百姓のみが結びし一揆にあらず。軍師は元真田の赤備え隊長、天草甚兵衛殿を始めとし、各々が大将は、全て元和大阪の陣にて名を馳せし、一騎当千のつわもの揃いにて候。この壮挙に馳せ参じた腕に覚えのある浪人 二百五十名は、いずれも主家を滅ぼされた面々でござる。皆々敵討ちにて候」と記るされていた。


「神曲」 57-63 第二部_a0144027_18505770.jpg 島原の領民達が武力蜂起したのは 十月の十五日だが、天草はそれより十二日も遅れて決起をした。益田甚兵衛は、天草、島原両地区の作戦を、綿密に計算しながら指揮を取っている。セシルが甚兵衛に、雲上から下界の様子を思念で送った。それから役の小角殿も、仙界から降りてこられた。いよいよである。

 加津佐村では、代官の山内小右衛門と安井三郎右衛門が、三十人余りの一揆勢に鉄砲で撃たれて討死にした。「ばかにしくさって」「おうが娘ばいたぶり、首ば吊らせたのはお前のせいじゃなかっとか」「こん、ばかたれが」と言い、
 次いで小浜村では、千々石、小浜、串山の三ヶ村を管轄していた代官の高橋武右衛門の邸に、一揆側が押しかけて放火し、「思い知ったか、こん恨みば」と武右衛門は、鍬や鳶口や棍棒などで叩き殺された。


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 その次の日、島原城を出発した城兵が 南に三里ばかりの深江村に到着してみると、そこには、なんと一千名を超す一揆勢が集結して待機していたのである。いよいよ最初の戦端が開かれた。
 この深江村の激戦で、島原城側は騎乗の 士分五、六人と、兵百人ほどが死んだ。一揆側も二百人余りが戦死している。その死んだ百姓に、「こん恨みば、必ず取ってやるばってん」と言い、亡骸を片付けている。
 「悔しかろうなあ、待っていてくれよ、おうが仇ば討ってやるばって」と言っていた。一揆側には、堂崎、布津などの領民も続々と応援に駆けつけ、二千余名に脹れあがり 女性も武器を手にして加わっている。
 城を三方から囲むように布陣して、島原城を攻撃する態勢をとっていた。城内では救援軍を待ちながら籠城しているが、戦力としては二千程で、それに対する島原の一揆勢力は、すでに一万八千と数えられていた。
 そして、天草は島原の決起に遅れること十二日にして、全島の一揆への態勢は整ったのである。天草は、備前唐津の寺沢堅高の領地になっており、富岡城の城代、三宅藤兵衛が統治していた。  
 「なんも怖わかごつなかっと」「あん城におった侍と、相撲ばしたばってんが、おうよりも、力が弱かったとばい」と百姓たちが言い、四郎たちも、富岡城などは恐れてもいなかった。城兵は百余名、足軽、人夫なども三百余りで、本藩の唐津から援軍が来るには、船をしつらえ、時間がかかるだろう。それまでには全島を支配化に収められるであろうと、四郎達は考えていた。城代の三宅藤兵衛はしかし、一揆は対岸の火だとみて、楽観をしていた。罹る災難を予知すら出来ぬ、凡愚であった。

「神曲」 57-63 第二部_a0144027_21135368.jpg そして次ぎの日、一気に天草の一揆は起こった。この頃既に大矢野島と天草上島の一揆戦力は、五千余名になっており、上津浦の城塞に集結していたのである。藤兵衛は、始めて意外な状況に驚愕し、早速討伐隊を出そうとしたが、とても勝ち目のある兵力ではない。しかし、援軍の遅いのに業を煮やし、城兵などで軍団を編成し、援軍が来た頃は出陣した後だった。
 援軍はこれを追って、翌日には、天草下島の本渡に軍団を進めていた三宅藤兵衛に合流し、城側の総数は千五百人となった。この勢力で天草上島下島と、大矢野島の一揆側の討伐に出撃する態勢を構えたのである。城代の三宅藤兵衛は、陣頭に出て指揮を取り、奮戦はしたが、従う者百八十人が死傷し、自らも深傷を受け、もはやこれまでと、正午頃には自刃してしまった。
 一揆軍は、三宅の首級をとって高く晒し、勝鬨をあげた。
 「天草の百姓ば、ばかにしよって」とその頭を蹴飛ばした。ころころころころと斜面を転がり、赤く血で染まった、天草本渡の河の中に、落ちた。主将を失った城兵は、一揆の大軍勢に追われ、命からがら富岡城に逃げ戻った。その後には、武器、弾薬、兵糧、軍馬などが無数に遺棄されていた。こうして天草は、伴天連衆の島になったのである。









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by hirosi754 | 2010-06-02 16:22 | 小説